夏目漱石生い立ち

夏目漱石(なつめそうせき)

 夏目漱石(なつめそうせき)は、慶応3年(1867)2月9日、江戸牛込馬場下横町 (うしごめばばしたよこまち)(現在の新宿区喜久井町(きくいちょう))で数代前からの名主のもとに生まれる。
 本名は夏目金之助。母親が高齢出産だったこと、漱石誕生の翌年に江戸が崩壊し夏目家が没落しつつあったことなどから、漱石は幼少期に数奇な運命をたどる。生後4ヶ月で四谷の古具屋(八百屋という説も)に里子に出され、更に1歳の時に父親の友人であった塩原家に養子に出される。その後も、9歳の時に塩原夫妻が離婚したため正家へ戻るが、実父と養父の対立により夏目家への復籍は21歳まで遅れる。
 漱石は、家庭環境の混乱からか、学生生活も転校を繰り返す。小学校をたびたび変え、12歳の時に東京府第一中学校に入学するが、漢学を志すため2年後中学校を中退、二松学舎へ入学。しかし、2ヶ月で中退。その2年後、大学予備門の受験には英語が必須であったため神田駿河台の英学塾成立学舎へ入り、頭角をあらわしていく。17歳のとき、大学予備門(のちに第一高等中学校と改称)に入学。ここで、のちに漱石に文学的・人間的影響を与えることとなる 正岡子規(まさおかしき) と出会い、友情を深める。学業にも励みほとんどの教科において主席であった。特に英語はずば抜けて優れていた。そして明治23年(1890)23歳のとき、東京帝国大学英文学科へ入学。ここでも漱石は秀才ぶりを発揮し、特待生に選ばれる。当校の教授をしていたJ.M.ディクソンは漱石の才能を見込み、「方丈記」の英訳を依頼した。やがて明治26年(1893)26歳のとき同大学同学科を卒業する。
 漱石は、10代の頃より様々な場所で教師を務める。大学卒業後は、東京高等師範学校の英語嘱託をへて、明治28年(1895)松山の愛媛県尋常中学校に英語科教師として赴任し教鞭をふるう。松山は子規の故郷でもあり、ちょうどこのころ静養のため帰郷していた子規と共に俳句に精進する。また、同時期に、貴族院書記官長中根重一の長女 中根鏡子(なかねきょうこ) との縁談の話が持ち上がり、彼女と見合いをし婚約する。そして翌年、熊本県の第五高等学校講師として赴任し、結婚する。
 明治33年(1900)33歳のとき、漱石は文部省から英文学研究のため英国留学を命じられ、渡英する。初期の頃は、勤勉に励んでいたが、じきに英文学研究への違和感を感じ始め、神経衰弱に陥る。下宿先を何度も変え、そんな中、 池田菊苗(いけだきくなえ) という化学者と出会った事で新たな刺激を受け、下宿に一人こもりきりで研究に没頭し始める。これを耳にした文部省は、急遽(きゅうきょ) 帰国を命じ、明治36年(1903)に漱石は帰国した。
帰国後、漱石は 小泉八雲(こいずみやくも)の後任として東京帝国大学英文科講師となる。しかし、彼の分析的な硬い講義は生徒に不評で、「八雲留任運動」が起こるなどしたため、漱石は神経衰弱を再発させてしまう。そのような中、当時子規の遺志を継いで『ホトトギス』を経営していた 高浜虚子(たかはまきょし) は、漱石に小説を書くようにすすめる。そこで漱石は、明治38年(1905)38歳のとき 「吾輩(わがはい)は猫である」を執筆し発表する。その後 「倫敦塔」(ろんどんとう) 「坊(ぼ) っちゃん」と立て続けに作品を発表し、作家としての地位を向上させていく。
 そしてついに、明治40年(1907)40歳のとき、一切の教職を辞し朝日新聞社へ招聘(しょうへい)され入社し、本格的に職業作家としての道を歩み始める。このとき漱石に入社を決意させたのが、朝日新聞で主筆を務めていた 池辺三山(いけべさんざん) である。出世が約束されていた帝国大学教授から一新聞小説家へ、明治のエリート街道からの逸脱(いつだつ)は人々に驚きを与え、入社第一作目の「虞美人草(ぐびじんそう)」は大きな話題を呼んだ。ちょうどこの頃、漱石は 早稲田南町(わせだみなみちょう) に引っ越す。この家は、のちに「漱石山房」(そうせきさんぼう) と呼ばれ、毎週木曜日の面会日「木曜会」には、若い文学者たちが集まり、多くの著名な作家が出た。
 漱石はここで、「坑夫(こうふ)」「夢十夜(ゆめじゅうや)」を書き、続けて前期三部作「三四郎(さんしろう)」「それから」「門(もん)」を完成させた。だが、明治43年43歳のとき、「門」の執筆中胃潰瘍を患い、療養生活となる。転地療養のため修善寺温泉へ赴くが、そこで大量に吐血し、生死の間を彷徨(さまよ)う危篤状態に陥る。これが、いわゆる「修善寺の大患」と呼ばれる事件である。この事件時には、多くの仲間や弟子が漱石のもとへ集まった。その後、一旦容態が回復し東京へ戻るが、漱石は何度も胃潰瘍などの病気に苦しまされることとなる。
 明治44年(1911)44歳のとき、文部省から博士号授与の通達があったが、漱石がこれを辞退したため波紋を呼んだ。この博士号辞退事件は、権威主義的な政府に激しい憤りを感じていた漱石の反抗の現れであった。漱石は博士号という名誉より作家であることを選んだのである。
 療養から執筆活動を再開した漱石は、大正元年(1912)45歳のとき「彼岸過迄(ひがんすぎまで)」を著し、続いて「行人(こうじん)」「こころ」の後期三部作を完成させた。大正4年(1915)48歳のときには、自伝的要素の強い「道草(みちくさ)」を発表した。しかし、これら作品の執筆期間中にも漱石の病は悪化し、胃潰瘍以外にも、痔(じ)や神経衰弱に悩まされ、糖尿病におかされる。そして、大正5年(1916)49歳のとき、「明暗(めいあん)」執筆途中に胃潰瘍が再発、内出血を起こし、その短い生涯を閉じたのである。
夏目漱石

本ページに関するお問い合わせ

本ページに関するご意見をお聞かせください

本ページに関するアンケート
本ページの情報は役に立ちましたか?以下の選択肢であてはまるものにチェックを入れてください。
本ページは見つけやすかったですか?以下の選択肢であてはまるものにチェックを入れてください。

区政についてのご意見・ご質問は、ご意見フォームへ。