漱石山房
最終更新日:2009年12月10日
漱石山房(そうせきさんぼう)
夏目漱石は、明治40年9月、早稲田南町に引っ越した。ちょうど朝日新聞に専属小説記者として入社して半年、その第1作となる
「虞美人草(ぐびじんそう)」を書き上げた頃のことである。漱石は、ここで多くの名作を生み出し、大正5年、49歳で「明暗」の執筆中に亡くなるまで、
住み続けた。この、漱石が晩年を過ごした家と地を、「漱石山房(そうせきさんぼう)」という。
「漱石山房」の家は、ベランダ式の回廊のある広い 家で、庭には背丈を越す芭蕉がそよぎ、木賊(とくさ)が繁っていた。もとは医者の家で、奥の十畳は診察室として使われていたような板敷きの 洋間があった。漱石は、この洋間に絨毯を引き、紫檀(したん)の机と座布団をしつらえて、書斎としていた。机は意外に小さくて、漱石が小柄 な男であったことを思い浮かべることができる。書斎の手前の十畳間が応接間となっていた。漱石には、門下生や朝日新聞の関係者 など、面会者がとても多かったため、面会日を毎週木曜日に決めた。そして、その日は午後から応接間を開放し、訪問者を受け 入れた。これが「木曜会(もくようかい)」の始まりである。「木曜会」は、近代日本では珍しい文豪サロンとして、若い文学者たちの集いの場所と なり、漱石没後も彼らの精神的な砦となったのである。
「漱石山房」の家は、ベランダ式の回廊のある広い 家で、庭には背丈を越す芭蕉がそよぎ、木賊(とくさ)が繁っていた。もとは医者の家で、奥の十畳は診察室として使われていたような板敷きの 洋間があった。漱石は、この洋間に絨毯を引き、紫檀(したん)の机と座布団をしつらえて、書斎としていた。机は意外に小さくて、漱石が小柄 な男であったことを思い浮かべることができる。書斎の手前の十畳間が応接間となっていた。漱石には、門下生や朝日新聞の関係者 など、面会者がとても多かったため、面会日を毎週木曜日に決めた。そして、その日は午後から応接間を開放し、訪問者を受け 入れた。これが「木曜会(もくようかい)」の始まりである。「木曜会」は、近代日本では珍しい文豪サロンとして、若い文学者たちの集いの場所と なり、漱石没後も彼らの精神的な砦となったのである。
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