漱石ゆかりの人物たち

最終更新日:2010年1月20日

夏目鏡子(なつめきょうこ)

明治10年(1877)7月21日生まれ 広島県出身
 貴族院書記官長の中根重一の長女として生まれる。中根家が隆盛を極めていたことから、尋常小学校卒業後は進学せず、家で家庭教師をつけられ勉学に励んだ。明治28年、漱石は鏡子とお見合いをし婚約する。見合いの席で、漱石は、口を覆うことをせず、歯並びの悪さを隠さずに笑う表裏のない鏡子に好感を抱いた。また、鏡子も漱石の穏やかな容姿に惹かれた。明治29年4月、漱石は熊本の第五高等学校に転任し、5月に鏡子と結婚式を行っている。漱石は結婚して間もない頃、鏡子に次のように語ったという。「俺は学者で勉強しなければならないのだから、お前なんかにかまってはいられない。それは承知してもらいたい。」一方、お嬢様育ちの鏡子は家事が不得意で、漱石が叱ることもあった。鏡子は慣れない結婚生活からヒステリー症状を起こすこともままあり、これが漱石を悩ませ、漱石を神経症に追い込んだ一因とも言われる。
 しかし、夫婦仲はそれほど悪くはなかった。漱石は英国留学中も頻繁に鏡子へ手紙を送り、返事を待ちわびた。ところが、筆不精な鏡子はあまり返事を送らなかったため、漱石をいらだたせた。当時、鏡子は二児を抱えながら僅かなお金で生活しなければならず、窮状に陥っていたのだ。
 後世において、鏡子に対しては悪妻のイメージがついて回っていた。しかし近年、そのイメージも変わりつつある。鏡子は性格に表裏が無く、弱いものに対する慈しみの気持ちを持ち、子供たちや孫たちに慕われる良き母・良き祖母であった。漱石が神経衰弱に陥ったときも、夫を支え続けた。漱石が専業の小説家となり、彼を慕う若手の文学者や教え子達が集まり、「木曜会」が開かれるようになると、鏡子は彼らを物心両面から面倒をみた。漱石が小説家として成功した裏では、献身的な鏡子の存在が大きかったのである。

正岡子規(まさおかしき)

慶応3年(1867)9月17日生まれ 愛媛県松山市出身
 明治16年(1883)松山中学校を中退し上京、翌年大学予備門(後の東京帝国大学、現・東京大学)に合格し入学する。明治22年、喀血が一週間続いたことから、「鳴いて血を吐く」ホトトギスになぞらえて「子規」と号す。明治25年、上根岸(現・台東区根岸)に転居し、東京帝国大学を退学。新聞「日本」へ入社し、俳句の革新運動に努め「獺祭書屋俳話(だっさいしょおくはいわ)」を連載した。後に俳句雑誌「ホトトギス」を創刊し、俳句の世界に大きく貢献した。明治28年、日清戦争従軍記者として中国の遼東半島に渡るが、帰路大吐血に見舞われる。郷里の松山で療養生活を続けるが、明治35年に35歳の短い生涯を終えた。

 子規は漱石に多大な文学的・人間的影響を与えた人物である。22歳の時、漱石と子規は互いに知り合い、共通の趣味であった寄席の話題などを通じて交流するようになる。人の好き嫌いの激しい子規であったが、漱石とは親しく交際し、喀血の折には漱石を大変心配させた。明治25年、学業よりも俳句や小説に関心を募らせていった子規は、学期末試験に落第したのをきっかけに大学を退学する。このときも、漱石は子規の退学を最後まで引き止めた。明治28年、漱石は愛媛県へ中学校の英語教師として赴任する。ちょうどこのとき、中国からの帰国途中で喀血した子規が療養のために松山に帰郷し、漱石は下宿の部屋を病身の子規に貸し与えた。明治33年から英国留学を命じられた漱石は、ロンドンの生活の様子を子規へ手紙で書き、病床の子規を喜ばせた。子規は漱石から受け取った手紙を、「ホトトギス」に「倫敦消息(ろんどんしょうそく)」として掲載し、反響を呼んだ。明治34年、子規は漱石に手紙でこう書いた。「もし書けるなら、僕の目の明いているうちに今一便よこしてくれぬか」と。しかし、漱石は更なる手紙を書くことが出来ず、子規は返事を受け取ることなく死去した。子規の願いを聞き届けることが出来なかったという思いは、漱石に深い後悔をもたらせたに違いない。漱石がロンドンから帰ってきた時、子規は既に亡くなっていたが、当時子規の後継者として「ホトトギス」を経営していた高濱虚子は、漱石に「自転車日記」「幻影の盾(まぼろしのたて)」「坊っちゃん」を書かせた。そうして漱石は、作家への道を歩き始めた。子規と漱石が出会わなければ、日本が誇る明治の文豪「夏目漱石」は誕生し得なかったかもしれない。

池辺三山(いけべさんざん)

文久4年(1864)2月5日生まれ 熊本県熊本市出身
 幼い頃から異彩を放っていた三山は、十八歳で上京し、啓蒙思想家であった中村敬宇(なかむらけいう)の同人社に入った後、慶応義塾大学で学ぶ。明治16年、佐賀県設置に際し、三山は同県学務課で勤務することとなった。その後、再度上京し、「日本新聞」の客員となり、新聞界の桧舞台に立った。26年、海外留学へ発ちヨーロッパ 5カ国を訪問する。留学中、日本新聞に寄せた「巴里通信(ぱりつうしん)」はたちまち人気となり、彼の名は一躍有名となった。28年に帰国し、翌年「大阪朝日」に主筆として入社。彼の政界論評の識見と文章は、「大阪朝日」の声価を上げ、31年、「東京朝日」の主筆となる。
 漱石は、40歳から49歳まで「東京朝日」の社員として数々の名作を発表した。その漱石に朝日への入社を決断させたのが、三山であった。三山が漱石を獲得しようと会いに行った時、初対面で二人は意気投合し、さらに漱石は、三山の書画の才能にも深く感銘を受けた。しかし実際には、、三山が留学中別名で執筆していた「巴里通信」を、漱石は当時すでに高く評価していたのである。漱石は三山を信頼するに足る人物と直感し、朝日で作家として歩む道を選んだ。
 三山は、漱石の身を案じ、漱石と朝日の間に起こる摩擦のクッション役を果たした。修善寺の大患では、漱石が病床で執筆を続けていると知り、彼を叱りつけた。しかし、この翌年、三山は突然朝日を退社する。きっかけは、漱石の門下生の森田草平が連載した記事の内容が、反道徳的だとする声が社内から起こったことによるものだ。三山が漱石をかばいすぎるために漱石の門下が勝手なことをするのだという批判に三山は激怒し、責を負って辞職したのである。漱石も辞職を考えたが、周辺からの反対を受け思いとどまる。しかし、この事件があってすぐ、朝日を去って五ヶ月後、三山は心臓発作で急逝してしまう。三山の突然の死に、漱石は茫然となる。前年に漱石は五女を亡くしており、悲しみの癒えぬうちの三山の死であった。
 もし漱石が朝日新聞に入社していなければ、「虞美人草(ぐびじんそう)」から「明暗(めいあん)」までの名作は生まれず、日本の近代文学史は随分違ったものになっていたことだろう。三山が漱石を朝日に入社させた功績は、実に偉大なものだったのだ。三山の死と時を近くして発刊した「彼岸過迄(ひがんすぎまで)」の献辞には、「此書を、亡児雛子と、亡友三山の、霊に捧ぐ」と綴られている。

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