主な文化財の紹介

最終更新日:2021年9月14日

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新宿区には、旧石器時代の昔から先人の歩んできた足跡があり、土地の記憶・まちの記憶を伝える多くの文化財が今日まで残されています。文化財は、地域の歴史が紡ぎ出した遺産であり、新宿区の歴史や文化を未来に継承していくために、欠くことのできない貴重な資料です。
このページでは、区内に所在する文化財の一部をご紹介します。

下記の他にも、新宿区には指定・登録文化財が数多くあります。文化財の一覧などは「新宿区の指定・登録文化財」のページをご覧下さい。また、新宿区観光協会のページでは史跡や文化財散策のご案内をしています。併せてご覧下さい。

新宿区の文化財

区指定史跡 高松喜六の墓 (愛染院:若葉2-8)

高松喜六の墓高松喜六の墓
内藤新宿の生みの親、高松喜六はもとは喜兵衛といい、浅草の名主であった。
喜六は、当時甲州街道の最初の宿場が日本橋を出発して4里余り(約16キロ)の高井戸であり、大変不便であったので、元禄10年(1697)同志4人とともに幕府に内藤家下屋敷の一部(現在の新宿御苑北側)に宿場を開設する請願を提出した。翌年許可がおり、喜六は宿場開設資金5,600両を納め、問屋・本陣を経営した。
正徳3年(1713)8月に没したが、高松家は代々内藤新宿の名主とつとめた。墓石は高さ80センチで、右側面に「内藤新宿開発人高松金八友常」と刻まれている。

区指定有形民俗文化財 正受院の奪衣婆像 (新宿2-15-20)

正受院の奪衣婆像正受院の奪衣婆像
木造で像高70センチ。片膝を立て、右手に衣を握った奪衣婆の坐像で、頭から肩にかけて頭巾状に綿を被っているため「綿のおばば」とも呼ばれる。本像は咳止めに霊験があるとして、幕末の嘉永2年(1849)頃大変はやり、江戸中から参詣人をあつめ、錦絵の題材にもなっている。当時、綿は咳止めのお礼参りに奉納したと伝えられる。
本像は小野篁の作であるとの伝承があり、また田安家所蔵のものを同家と縁のある正受院に奉納したとも伝えられる。像底のはめ込み板には「元禄十四年辛己年奉為当山第七世念蓮社順誉選廓代再興者也七月十日」と墨書されており、元禄年間から正受院に安置されていたことがわかる。

区指定有形文化財(彫刻) 経王寺の大黒天像 (原町1-14)

 経王寺の大黒天像 経王寺の大黒天像
山の手七福神のひとつで、日法上人の作。慶長3年(1598)に甲斐国身延山より移されたと伝えられる。
高さ12センチの木彫立像で、大黒頭巾をかぶり小槌と大袋を持ち台座に乗る通規の様式だが、江戸時代のものと異なり、微笑面ではなく厳しい表情をしている。
室町時代の作と考えられ、度重なる火災にも焼け残ったことから「火伏せ大黒」として崇敬されている。

区指定有形文化財(建造物) 市谷亀岡八幡宮の銅鳥居 (市谷八幡町15)

市谷亀岡八幡宮の銅鳥居市谷亀岡八幡宮の銅鳥居
文化元年(1804)12月建立の銅製明神型鳥居で、高さ4.6メートル、台石0.55メートル、柱には初願者・当八幡宮別当第七世智光、造立者・東圓寺現住仁龍他7名、鋳物師・西村和泉藤原政平の建造銘と、寄進者442名の名前や職業が陰刻されている。
「八幡宮」の額は、播磨姫路15万石の酒井家11代当主雅楽頭忠道の書によるもので、八の字は八幡宮の神使の鳩一対によって形成されている。
区内に現存する唯一の銅製鳥居で、意匠や鋳造技術にも優れており貴重である。

区登録無形民俗文化財 鉄砲組百人隊行列

鉄砲組百人隊行列鉄砲組百人隊行列
皆中稲荷神社の例大祭で隔年(平成は奇数年)に開催される行事で、江戸時代に現在の百人町一帯に屋敷を与えられていた幕府鉄砲組百人隊が、神社に奉納したと伝えられる出陣式を再現したもの。
当日は、甲冑に身を固めた武将が百人町周辺を隊列行進し、火縄銃を携えた鉄砲隊が、数ヶ所で古式にのっとり試射を行う。
鉄砲組は4組あり(百人町に住んだのは二十五騎組、別称大久保組)、通常は交替で江戸城大手三之門を警備した。また、将軍の寛永寺・増上寺・日光東照宮参詣には護衛した。

新宿区の埋蔵文化財

内藤町遺跡 第3次調査

肥前系波佐見・平戸磁器 鶴首徳利肥前系波佐見・平戸磁器 鶴首徳利
江戸時代の大名屋敷跡。ごみ穴や地下室、井戸の遺構などが検出している。
主な遺物は、磁器・陶器など。18世紀第2四半世紀製作と推測される「乾山焼」の重ね角皿やアルファベット染付文字のある磁器が検出している。また、隣接する「内藤新宿」の旅籠屋等を示す屋号が記された陶器類が多量に検出している。
幕末から明治初頭における武家屋敷の実際の土地利用の在り方を掌握できる遺跡である。

百人町三丁目西遺跡 第7次調査

弥生土器弥生土器
弥生時代末から古墳時代(前期)の集落跡。住居跡の遺構が検出している。
主な遺物は土器(台付甕、甕、壺、高坏)。焼失住居の床面で15個体の土器が出土し、壺中に炭化米が残存している。

白銀町西遺跡

4号竪穴住居跡4号竪穴住居跡
(1)弥生時代から古墳時代の集落・墓跡、(2)奈良時代の集落跡、(3)江戸時代の屋敷跡。(1)は住居跡や方形周溝墓など、(2)は住居跡、(3)は地下室や井戸などの遺構が検出している。
主な遺物は、(1)弥生土器と土師器、(2)は土師器と須恵器、(3)陶磁器類や金属製品など。

国・東京都の文化財

国史跡 林氏墓地 (市谷山伏町16)

林氏墓地林氏墓地
江戸時代、朱子学をもって幕府に仕えた林羅山とその一族・子孫の墓地である。元禄11年(1698)、3世鳳岡の時に拝領した屋敷地の一部に造営された。
現在の墓地は次第に縮小されたもので、儒葬による埋葬様式をとどめているのは8世述斎から11世復斎までの4基の墓のみであるが、現存する希少な遺例として貴重である。この墓地には12代の代々の当主の他、その家族など81基の墓碑等が林立している。

重要文化財(建造物) 学習院旧正門 (学習院女子大学:戸山3-20-1)

学習院旧正門学習院旧正門
明治10年(1877)の華族学校(学習院)開校時に、2階建の洋風校舎の正門として建設されたもの。約3,000円の費用をかけて武州川口(現在の埼玉県川口市)にて造られた。
鋳鉄製の和洋折衷の門で、門扉、本柱、脇門扉、脇柱、袖塀、円柱からなる。本柱と脇柱は方柱で、唐草文と蕨手文の装飾が施され、頂部には擬宝珠を戴いている。扉は蕨手文が主となり、四つ葉状の意匠、唐草文の装飾が施されている。
明治19年(1886)の火災で学習院の校舎が焼失すると、正門は鐘ヶ淵紡績株式会社の所有となったが、学習院卒業生らの運動により、昭和2年(1927)に鐘紡から譲り受けて学習院の手に戻った。そして、昭和25年(1950)の学習院女子短期大学の開学に際し現在地に移築された。

都指定有形文化財(彫刻) 銅造地蔵菩薩坐像 (太宗寺:新宿2-9-2)

銅造地蔵菩薩坐像銅造地蔵菩薩坐像
右手に錫杖、左手に宝珠を持つ丈六の地蔵菩薩坐像である。江戸に出入する6つの街道筋に置かれた江戸六地蔵の第三番として、深川の地蔵坊正元が発願し、江戸市中から約7万2千名の寄進者を募って造立されたもの。像本体や台座には、全体に寄進者名が刻まれている。鋳造は神田鍋町の鋳物師太田正儀である。

本ページに関するお問い合わせ

新宿区 文化観光産業部-文化観光課
電話:03(5273)3563 FAX:03(3209)1500

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