新宿区の指定・登録文化財と地域文化財
最終更新日:2025年2月7日
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新宿区は、古くから歴史的環境に恵まれ、地域の歴史や文化を伝える多くの文化財が伝えられています。
新宿区では、これらの貴重な文化財を永く後世に伝えていくため、昭和58年に「文化財保護条例」を制定し、区内の文化財で特に貴重なもの、保存する必要のあるものを区指定文化財・区登録文化財として保護するとともに、ガイドブックや地図での紹介、説明板の設置、一般公開の実施など、周知や活用をはかっています。
また、平成23年4月からは新たに「地域文化財」制度を創設し、明治時代から高度経済成長期に至る近現代の文化財を中心に、保護と活用に努めています。
新宿区では、これらの貴重な文化財を永く後世に伝えていくため、昭和58年に「文化財保護条例」を制定し、区内の文化財で特に貴重なもの、保存する必要のあるものを区指定文化財・区登録文化財として保護するとともに、ガイドブックや地図での紹介、説明板の設置、一般公開の実施など、周知や活用をはかっています。
また、平成23年4月からは新たに「地域文化財」制度を創設し、明治時代から高度経済成長期に至る近現代の文化財を中心に、保護と活用に努めています。
新宿区指定・登録文化財と地域文化財の紹介
- 新宿歴史博物館「所蔵資料検索」(新規ウィンドウ表示)新宿歴史博物館の主な所蔵資料が検索できます。
- 新宿区指定・登録文化財一覧(令和7年2月7日現在) [PDF形式:307KB] (新規ウィンドウ表示)新宿区指定・登録文化財の一覧をご覧いただけます。
- 新宿区地域文化財一覧(令和7年1月23日現在) [PDF形式:1.9MB] (新規ウィンドウ表示)新宿区地域文化財の一覧をご覧いただけます。
新たな新宿区登録文化財
令和7年2月7日付で新宿区登録文化財が2件決定、登録されました。
令和7年2月7日現在、新宿区指定文化財は133件、登録文化財は57件、地域文化財は50件です。
令和7年2月7日現在、新宿区指定文化財は133件、登録文化財は57件、地域文化財は50件です。
新宿区登録有形文化財( 工芸品)「愛染院の梵鐘」

種 別:新宿区登録有形文化財(工芸品)(登録第56号)
所在地:新宿区若葉二丁目8番地3 愛染院
宝暦10年(1760)7月、愛染院住職尭範(ぎょうはん)の代に、四谷仲殿町の千葉宗寿・元昌が願主となり、神田鍋町住の鋳物師・小幡内匠が鋳造した「百字真言鐘」と呼ばれる銅造の梵鐘です。
総高123㎝(竜頭高31.0㎝、身高92.0㎝)、口径70.0㎝。竜頭(鐘の最上部)は蓮華座上に火焔宝珠を置く両頭式。
いぼ状の突起が集まる鐘上部の「乳の間」には、百字真言の梵字を鋳出した碁石状の乳を五段五列、計百個を配します。「池の間」と呼ばれる鐘の中央には全体に銘文があり、そこから鋳造の由来、鋳物師名、願主などが分かります。
精巧に仕上げられた竜頭、全体に寸詰まった感のある鐘身等は、宝暦期に鋳造された梵鐘の特徴を示します。元禄期以降に盛行し、ほぼ100年で衰退した百字真言鐘の区内唯一の遺例で貴重です。
所在地:新宿区若葉二丁目8番地3 愛染院
宝暦10年(1760)7月、愛染院住職尭範(ぎょうはん)の代に、四谷仲殿町の千葉宗寿・元昌が願主となり、神田鍋町住の鋳物師・小幡内匠が鋳造した「百字真言鐘」と呼ばれる銅造の梵鐘です。
総高123㎝(竜頭高31.0㎝、身高92.0㎝)、口径70.0㎝。竜頭(鐘の最上部)は蓮華座上に火焔宝珠を置く両頭式。
いぼ状の突起が集まる鐘上部の「乳の間」には、百字真言の梵字を鋳出した碁石状の乳を五段五列、計百個を配します。「池の間」と呼ばれる鐘の中央には全体に銘文があり、そこから鋳造の由来、鋳物師名、願主などが分かります。
精巧に仕上げられた竜頭、全体に寸詰まった感のある鐘身等は、宝暦期に鋳造された梵鐘の特徴を示します。元禄期以降に盛行し、ほぼ100年で衰退した百字真言鐘の区内唯一の遺例で貴重です。
新宿区登録有形文化財(歴史資料)「観音庵の血書経・筆塚」

種 別:新宿区登録有形文化財(歴史資料)(登録第57号)
所在地:新宿区新宿七丁目3番13号 観音庵
曹洞宗観音庵の尼僧・佛山禅苗(ぶっさん ぜんびょう)による、血書と伝えられる経典(通常非公開)及び筆塚です。
文政13年(1830)に病気平癒を祈念して血書した妙法蓮華経観世音菩薩普門品1巻、天保3年(1832)に天下泰平国家安穏を祈念して血書した大般若波羅蜜多経117巻と発願の書1幅、筆を埋めたといわれる筆塚1基の計4件からなります。
【血書妙法蓮華経観世音菩薩普門品 1巻】
文政13年(1830)作、紙本巻子、縦29.0㎝、横517.2㎝
【血書大般若波羅蜜多経発願の書 1幅】
天保3年(1832)作、紙本掛幅、縦115.1㎝、横53.6㎝
【血書大般若波羅蜜多経 117巻】
天保3年(1832)~5年(1834)作、紙本折本、縦27.9㎝、横9.1㎝、厚さ2.8㎝
【血書筆塚】
1基 建立年不詳、石造、総高199.0㎝、碑部高161.0㎝、幅142.0㎝、奥行24.0㎝
血書の大般若波羅蜜多経として現存117巻を数え、他に例を見ません。また、天下泰平国家安穏を祈念する発願の書が残っていて、さらに妙法蓮華経観世音菩薩普門品を加え、一尼僧の手によるまとまった血書経として貴重です。さらに、これまであまり明らかでなかった江戸時代の尼僧の活動、思想の一面をみる資料としても重要なものです。血書の筆を埋めたとされる筆塚は、発願者である佛山禅苗の偉業を現在に伝えています。
※「血書経」は通常非公開です。
※「筆塚」は屋外にあり、見学可能です。
所在地:新宿区新宿七丁目3番13号 観音庵
曹洞宗観音庵の尼僧・佛山禅苗(ぶっさん ぜんびょう)による、血書と伝えられる経典(通常非公開)及び筆塚です。
文政13年(1830)に病気平癒を祈念して血書した妙法蓮華経観世音菩薩普門品1巻、天保3年(1832)に天下泰平国家安穏を祈念して血書した大般若波羅蜜多経117巻と発願の書1幅、筆を埋めたといわれる筆塚1基の計4件からなります。
【血書妙法蓮華経観世音菩薩普門品 1巻】
文政13年(1830)作、紙本巻子、縦29.0㎝、横517.2㎝
【血書大般若波羅蜜多経発願の書 1幅】
天保3年(1832)作、紙本掛幅、縦115.1㎝、横53.6㎝
【血書大般若波羅蜜多経 117巻】
天保3年(1832)~5年(1834)作、紙本折本、縦27.9㎝、横9.1㎝、厚さ2.8㎝
【血書筆塚】
1基 建立年不詳、石造、総高199.0㎝、碑部高161.0㎝、幅142.0㎝、奥行24.0㎝
血書の大般若波羅蜜多経として現存117巻を数え、他に例を見ません。また、天下泰平国家安穏を祈念する発願の書が残っていて、さらに妙法蓮華経観世音菩薩普門品を加え、一尼僧の手によるまとまった血書経として貴重です。さらに、これまであまり明らかでなかった江戸時代の尼僧の活動、思想の一面をみる資料としても重要なものです。血書の筆を埋めたとされる筆塚は、発願者である佛山禅苗の偉業を現在に伝えています。
※「血書経」は通常非公開です。
※「筆塚」は屋外にあり、見学可能です。
新たな新宿区地域文化財
令和7年1月23日付で新宿区地域文化財が3件決定、認定されました。
今回認定されたのは富士塚3件です。
富士塚は、富士信仰に基づき、富士山を模して築かれた人工の富士山です。
新宿区内の富士塚では、「成子天神社の富士塚」が、平成2年に区登録史跡に登録されています。詳しくは、「温故知しん!じゅく散歩」(「成子天神社の富士塚」詳細ページ)をご覧ください。
今回認定されたのは富士塚3件です。
富士塚は、富士信仰に基づき、富士山を模して築かれた人工の富士山です。
新宿区内の富士塚では、「成子天神社の富士塚」が、平成2年に区登録史跡に登録されています。詳しくは、「温故知しん!じゅく散歩」(「成子天神社の富士塚」詳細ページ)をご覧ください。
稲荷鬼王神社の富士塚
種 別:新宿区地域文化財(歴史分野)(地域第48号)
所在地:新宿区歌舞伎町二丁目17番5号 稲荷鬼王神社
昭和5年(1930)に築造された区内で最も新しい富士塚で、かつては西大久保富士と呼ばれていました。同年6月15日に行われた開山式の様子は、新宿歴史博物館所蔵の映像「富士開山式」に記録されています。
当初の塚は、昭和24年(1949)の道路拡幅工事のため移築され、同43年(1968)には社務所建設のため、一合目から四合目を北側に、五合目から山頂を南側に分割した現在の形に改築されています。
この富士塚は富士講「丸谷講」が築きましたが、現在は活動していません。
所在地:新宿区歌舞伎町二丁目17番5号 稲荷鬼王神社
昭和5年(1930)に築造された区内で最も新しい富士塚で、かつては西大久保富士と呼ばれていました。同年6月15日に行われた開山式の様子は、新宿歴史博物館所蔵の映像「富士開山式」に記録されています。
当初の塚は、昭和24年(1949)の道路拡幅工事のため移築され、同43年(1968)には社務所建設のため、一合目から四合目を北側に、五合目から山頂を南側に分割した現在の形に改築されています。
この富士塚は富士講「丸谷講」が築きましたが、現在は活動していません。

月見岡八幡神社の富士塚
種 別:新宿区地域文化財(歴史分野)(地域第49号)
所在地:新宿区上落合一丁目26番19号 月見岡八幡神社
寛政年間(1789~1801)に、現在の山手通り(環状六号線)と早稲田通りが交差する上落合二丁目交差点付近に存在した古墳を富士塚に転用したのが起源とされ、かつては浅間塚と呼ばれました。
その後、昭和2年(1927)に山手通りの整備に伴い、当時の月見岡八幡神社の境内(現在の新宿区立八幡公園)に移築されましたが、昭和37年(1962)に落合下水処理場(現在の落合水再生センター)建設により神社の遷座が決まり、富士塚も現在地に移されました。
この富士塚は富士講「月三講」が築きましたが、現在は活動していません。
所在地:新宿区上落合一丁目26番19号 月見岡八幡神社
寛政年間(1789~1801)に、現在の山手通り(環状六号線)と早稲田通りが交差する上落合二丁目交差点付近に存在した古墳を富士塚に転用したのが起源とされ、かつては浅間塚と呼ばれました。
その後、昭和2年(1927)に山手通りの整備に伴い、当時の月見岡八幡神社の境内(現在の新宿区立八幡公園)に移築されましたが、昭和37年(1962)に落合下水処理場(現在の落合水再生センター)建設により神社の遷座が決まり、富士塚も現在地に移されました。
この富士塚は富士講「月三講」が築きましたが、現在は活動していません。

西向天神社の富士塚
種 別:新宿区地域文化財(歴史分野)(地域第50号)
所在地:新宿区新宿六丁目21番1号 西向天神社
天保13年(1842)に築造されたもので、関東大震災後の大正14年(1925)6月に改修・再築して現在に至ります。かつては東大久保富士と呼ばれました。富士塚の変遷などを示す記録等は残っていませんが、関東大震災で大きな被害を受け、その後再築に近い大規模な改修が行われたものと推定されます。
台地の斜面の地形を利用して造られていて、北側に浅間神社の碑とともに一合目の石標があり、南に向かい徐々に標高が増していきます。西の裾野は広がりがあり、新宿区立天神山児童遊園に接する塚の東側はかなり狭くなっています。
富士塚には合計19基の石碑が建てられていますが、造営当初のものは1基を残すのみとなっています。
所在地:新宿区新宿六丁目21番1号 西向天神社
天保13年(1842)に築造されたもので、関東大震災後の大正14年(1925)6月に改修・再築して現在に至ります。かつては東大久保富士と呼ばれました。富士塚の変遷などを示す記録等は残っていませんが、関東大震災で大きな被害を受け、その後再築に近い大規模な改修が行われたものと推定されます。
台地の斜面の地形を利用して造られていて、北側に浅間神社の碑とともに一合目の石標があり、南に向かい徐々に標高が増していきます。西の裾野は広がりがあり、新宿区立天神山児童遊園に接する塚の東側はかなり狭くなっています。
富士塚には合計19基の石碑が建てられていますが、造営当初のものは1基を残すのみとなっています。

本ページに関するお問い合わせ
新宿区 文化観光産業部-文化観光課
電話:03(5273)4126 FAX:03(3209)1500
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