新宿区の指定・登録文化財と地域文化財

最終更新日:2022年11月22日

シンボルマーク文化財愛護シンボルマーク
 新宿区は、古くから歴史的環境に恵まれ、地域の歴史や文化を伝える多くの文化財が伝えられています。
 新宿区では、これらの貴重な文化財を永く後世に伝えていくため、昭和58年に「文化財保護条例」を制定し、区内の文化財で特に貴重なもの、保存する必要のあるものを区指定文化財・区登録文化財として保護するとともに、ガイドブックや地図での紹介、説明板の設置、一般公開の実施など、周知や活用をはかっています。
 また、平成23年4月からは新たに「地域文化財」制度を創設し、明治時代から高度経済成長期に至る近現代の文化財を中心に、保護と活用に努めています。

新たに指定・登録された文化財

 令和4年11月4日付で指定文化財が1件、登録文化財が1件決定しました。

指定文化財(史跡)「辰野金吾の墓」

指定文化財(史跡)「辰野金吾の墓」 画像【左】辰野金吾の墓(常圓寺)、【右】辰野金吾(出典:近代日本人の肖像)
「辰野金吾の墓」(たつのきんごのはか)

種 別:新宿区指定文化財(史跡)
所在地:新宿区新宿七丁目12-5(常圓寺)



 辰野金吾(1854~1919)は、嘉永7年(1854)に唐津藩(佐賀県)の下級武士の次男として生まれました。
明治元年(1868)に叔父である辰野宗安の養子となり、明治6年(1873)に工部省工学寮(のちの工部大学校)の第一期生として入学し、建築家のジョサイア・コンドルから建築を学び、明治12年(1879)に首席で卒業します。翌年から3年間イギリスへ留学し、帰国後は工部大学校で教鞭をとりました。明治31年(1898)に帝国大学工科大学長となりますが、明治35年(1902)に退官し、辰野葛西建築事務所(東京)や、辰野片岡建築事務所(大阪)を開設し、日本銀行本店本館、東京駅丸の内駅舎(ともに重要文化財)や旧両国国技館をはじめとする日本近代建築史上重要な建築を手掛けました。
 
 辰野金吾は、明治政府が招聘した建築家であるジョサイア・コンドルから建築を学び、さらにはイギリスへ留学して当地の建築技術を日本へ持ち帰るなど、正統的な西洋建築学を修めた最初期の日本人建築家であり、日本銀行本店本館や東京駅丸の内駅舎など日本の近代化を象徴する国家的な建造物を手掛けました。また工部大学校で多くの建築家を養成し、建築学会の会長を務める等、日本の近代建築発展の礎を築きました。辰野金吾は、墓地のある常圓寺の檀家であり、庫裡や客殿(ともに現存しない)の設計も手掛けるなど、常圓寺との縁も深いです。日本の近代建築史に多大な足跡を残した建築家辰野金吾の墓所として、近代史上、文化史上、重要な史跡です。
 

登録文化財 (有形民俗文化財)「熊野神社の狛犬」

登録文化財 (有形民俗文化財)「熊野神社の狛犬」画像【左】吽形、【右】阿形
「熊野神社の狛犬」(くまのじんじゃのこまいぬ)

種 別:新宿区登録文化財(有形民俗)
所在地:新宿区西新宿二丁目11-2(熊野神社)


 享保12年(1727)に奉納された一対の狛犬で、熊野神社境内の大鳥神社の参道に安置されています。大鳥神社社殿に向かって右側が阿形(獅子)、左側が吽形(狛犬)です。両像とも台座とともに一つの石材から彫り出されています。腹の下は刳り貫かずに残してあり、その部分に奉納年と、奉納者(角筈村上町の百姓店衆講中)が刻まれています。
 
 熊野神社の狛犬は、区内に現存する狛犬では比較的古い時代に造られたものです。江戸における石造狛犬は17世紀半ばから造られはじめ、18世紀以降増加するとともに、しだいに複雑な意匠を凝らしたものになります。この狛犬は古くからの獅子と狛犬を区別した像容で、簡素な表現がなされています。また、腹の下を刳り貫かずに残し、そこに銘文を刻んでいる点も珍しいものです。全体的に丁寧な造りで、保存状況も良好です。
 享保年間(1716~1736)には、八代将軍徳川吉宗の熊野神社への参拝に端を発し、十二社熊野神社周辺は景勝地として知られるようになりました。この狛犬は、このような時期に地元氏子により奉納されていて、その姿の珍しさとともに貴重です。

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新宿区 文化観光産業部-文化観光課
電話:03(5273)4126 FAX:03(3209)1500

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