新宿ゆかりの人物

最終更新日:2016年2月29日

新宿区には、著名な人物が暮らし、活動していました。
ここでは区内に史跡がある歴史上の人物、新宿ゆかりの人物を紹介いたします。

尚、本ページ内の人物画像の使用権は各所蔵機関に帰属します。無断複製・二次使用を固く禁じます。

有島武郎

有島武郎画像有島記念館蔵
区指定史跡 有島武郎旧居跡(原町2-71)

 小説家有島武郎(1878~1923)は、東京小石川水道町に旧薩摩藩士・大蔵官僚有島武の長男として生まれました。札幌農学校を経てハーバード大学に留学後、『白樺』の創刊に参加し、『或る女』『生れ出づる悩み』などを発表しました。短期間の仕事場である原町と南寺町(現須賀町)の居宅で、最晩年を過ごしました。



泉鏡花

泉鏡花画像泉鏡花記念館蔵
区登録史跡 泉鏡花旧居跡(南榎町22)

 小説家泉鏡花(1873~1939)は、本名を鏡太郎といい、石川県金沢市に生まれました。尾崎紅葉に傾倒し、上京して横寺町の紅葉宅で玄関番をしつつ師事しました。後、南榎町や神楽坂に暮らし、『湯島詣』『高野聖』などの代表作を生み出しました。特に、『湯島詣』は神楽坂の花街を題材としており、新宿とゆかりの深い作品となっています。

大田南畝

大田南畝画像国会図書館デジタル化資料より
区指定文化財
熊野神社の水鉢(西新宿2-11-2)《文字を揮毫》
区指定史跡
便々館湖鯉鮒狂歌碑(常圓寺・西新宿7-12-5)《同上》
 大田南畝(1749~1823)は、江戸中~後期の狂歌師・戯作者・漢詩作者・考証随筆家です。蜀山人と号し、狂詩には寝惚先生と称しました。南畝は56歳までを牛込中御徒町(中町)、また61歳からの4年間を牛込若松町(大久保)に住み、そのほとんどを新宿で過ごしました。区外に引っ越した後も柏木(北新宿)に寄寓し、区内各地にゆかりの文化財を残しています。

尾崎紅葉

尾崎紅葉画像国会図書館デジタル化資料より
区指定史跡 尾崎紅葉旧居跡(横寺町47)

 小説家尾崎紅葉(1867~1903)は、江戸芝中門前町(現浜松町)に生まれました。大学予備門のとき文学結社「硯友社」を興し、雑誌『我楽多文庫』を創刊します。読売新聞の新聞小説を担当するなど、文壇で活躍しました。明治24年から亡くなるまでの12年間を横寺町の家(十千万堂)で過ごし、代表作『金色夜叉』などを執筆しました。

クーデンホーフ・光子

クーデンホーフ・光子画像柳澤アーカイブ蔵
クーデンホーフ光子旧居跡(納戸町26)

 クーデンホーフ光子〔青山みつ〕(1874~1941)は、正式に西洋の貴族と結婚した初めての日本女性です。明治29年に渡欧するまで納戸町(現納戸町公園)に住んでいました。明治24年、オーストリア・ハンガリー帝国代理公使のハインリッヒ・クーデンホーフ・カレルギーと知り合い、翌年に国際結婚し、渡欧後は亡くなるまでオーストリアで過ごしました。次男のリヒャルト〔栄次郎〕(1894~1972)は、現在のEUの元となる汎ヨーロッパ主義を提唱したことから「EUの父」と呼ばれています。

恋川春町

恋川春町画像跡見学園女子大学図書館蔵
区指定史跡 恋川春町の墓
(成覚寺・新宿2-15-18)

 恋川春町(1744~1789)は、江戸時代中期に活躍した浮世絵師・狂歌師・戯作者です。江戸小石川春日町に住んでいたところから、恋川春町と号しました。また、狂歌名を酒上不埒(さけのうえのふらち)と称しました。世相や人情を風刺した『金々先生栄花夢』が大評判となりますが、寛政の改革を批判したとして取り調べを受けることになり、悲観して亡くなりました。

小泉八雲(ラフカディオ・ハーン)

小泉八雲(ラフカディオ・ハーン)画像新宿歴史博物館蔵
区指定史跡 小泉八雲旧居跡(富久町3-30)/終焉の地(大久保1-1-7)
 小説家・随筆家小泉八雲(1850~1904)は、アイルランド人の父とギリシャ人の母の間にギリシャのレフカダ島で生まれました。明治23年(1890)雑誌記者として来日。松江や神戸を経て、帝国大学の講師に招かれ上京し、富久町に居住しました。そして松江で知り合った小泉節と結婚し、日本に帰化します。後に西大久保へ転居し、晩年を過ごしました。欧米に日本文化を紹介する一方、『今昔物語』などを題材とした再話文学を著しました。

斎藤茂吉

斎藤茂吉画像斎藤茂吉記念館蔵
区指定史跡 斎藤茂吉終焉の地(大京町22-2)

 歌人・精神科医斎藤茂吉(1882~1953)は、山形県南村山郡金瓶村(現 上山市)の農家の三男として生まれました。明治38年(1905)に浅草医院の斎藤家に入籍し、東京帝国大学医科大学に入学します。卒業後は精神科医として青山脳病院の再建に奔走し、院長を務めました。歌人としては、『アララギ』の創刊に参加、『赤光』他多数の歌集を刊行しています。最晩年は大京町で過ごし、二冊の歌集を刊行、文化勲章も受章しました。

佐伯祐三

佐伯祐三画像新宿歴史博物館蔵
区指定史跡 佐伯祐三アトリエの地(中落合2-4-21)

 佐伯祐三(1898~1928)は、近代日本を代表する洋画家の一人です。大正10年(1921)、まだ武蔵野の面影を残す当時の下落合にアトリエ付住宅を構えました。大正12年(1923)、家族とともにフランスに渡り、パリの街並みを数多く描きましたが、大正15年(1926)に帰国後再びフランスに渡るまでの約2年間は、パリで得た描写法を日本の風景に当てはめ、自己の画風を醸成させることに努めました。
佐伯祐三アトリエ記念館へ

三遊亭円朝

三遊亭円朝画像国会図書館デジタル化資料より
区指定史跡 三遊亭円朝旧居跡(新宿1-21)

 三遊亭円朝(1839~1900)は明治落語界を代表する落語家です。本名を出淵次郎吉といい、江戸湯島に生まれました。話術に長じ、人物の性格・環境を巧みに表現し、近代落語を大成しました。新宿には明治21年から28年まで居住していましたが、24年以降は寄席から身をひき、禅や茶道に心を寄せました。

島村抱月

島村抱月画像国会図書館デジタル化資料より
区指定史跡 島村抱月終焉の地(芸術倶楽部跡)
(横寺町9~11)

 演出家島村抱月(1871~1918)は、本名を滝太郎といい、島根県に生まれました。東京専門学校(現早稲田大学)文学部を卒業し、同校講師となりイギリス・ドイツに留学、帰国後は評論家・演出家として活躍しました。文芸協会設立に加わり幹事として坪内逍遙を助けましたが脱会し、松井須磨子とともに芸術座を組織し、横寺町に芸術倶楽部を創設しました。抱月は晩年の3年間をこの倶楽部の二階で過ごしました。

関孝和

関孝和画像一関市博物館蔵
都指定史跡 関孝和の墓(浄輪寺・弁天町95)

 和算を大成した関孝和(?~1708)は、駿河大納言徳川忠長に仕えた内山七兵衛永明の次男として生まれました。甲府藩士の関五郎左衛門の養子となり、藩主が六代将軍家宣となったのちは、幕臣として納戸組頭を勤めました。孝和は「点竄術」と呼ばれる筆算式代数学を創案し、和算が高等数学として確立する礎を築き、世に「算聖」と称されました。

高松喜六

高松喜六画像
区指定史跡 高松喜六の墓(愛染院・若葉2-8)

 高松喜六(?~1713)は、もとは喜兵衛といい浅草の名主でした。喜六は、当時甲州街道の最初の宿場が高井戸で、日本橋から遠く不便だったので、元禄10年、幕府に内藤家下屋敷の一部(現在の新宿御苑北側)に宿場を開設する請願を提出しました。翌年許可がおり、喜六は宿場開設資金5600両を納め、問屋・本陣を経営しました。この宿場は内藤新宿と称され、現在の新宿区の区名の起源となっています。

滝沢馬琴

滝沢馬琴画像早稲田大学図書館蔵
区指定史跡 滝沢馬琴終焉の地(霞ヶ丘町14-1)

 滝沢馬琴(1767~1848)は、旗本松平信成の用人の子として生まれ、寛政2年(1790)山東京伝に入門し黄表紙作家となり、後に読本作家となりました。天保7年(1835)、四谷信濃町の四谷組同心屋敷へ転居後、失明に近い状態のなか、嫁の路に口述筆記させ、『南総里見八犬伝』を完成させました。

月岡芳年

月岡芳年画像東京都立中央図書館特別文庫室蔵
区指定史跡 月岡芳年の墓(専福寺・新宿6-20-9)

 月岡芳年(1839~1892)は、江戸時代末から明治時代にかけて活躍した浮世絵師です。本名を吉岡米次といい、大久保の商家に生まれました。浮世絵師月岡雪斎の養子となり、歌川国芳門下に入り芳年の号をもらいます。歌川派の写実性と武者絵の正統を受け継ぎつつ、幕末維新前後の殺伐とした世相を描き出しました。

坪内逍遙

坪内逍遙画像国会図書館デジタル化資料より
区指定史跡 坪内逍遙旧居跡(文芸協会演劇研究所跡)(余丁町7-1)

 『小説神髄』や『当世書生気質』を著し近代文学の写実主義を興した坪内逍遙(1859~1935)は、美濃国加茂郡太田村(現美濃加茂市)に生まれました。明治23年(1890)から大正9年(1920)まで余丁町に居住し、早稲田大学で教鞭を執る傍ら、雑誌『早稲田文学』の発行、シェークスピア作品の研究・翻訳等を行いました。また、後期の文芸協会を主宰し、文芸協会演劇研究所を設け、後に日本の演劇界を担う多くの人材を養成しました。

中村彝

中村彝画像アトリエにて 大正8年(1919)
中村彝アトリエ記念館(新宿区下落合3-5-7)

 中村彝(1887~1924)は、茨城県水戸市に生まれ、上京後牛込原町等で小学・中学時代を過ごしました。肺結核療養の傍ら、白馬会研究所や太平洋画会研究所で絵画を学び、明治42年(1909)文展に初入選します。新宿中村屋の相馬夫妻の好意で中村屋裏のアトリエに移りますが、相馬家の長女俊子との恋愛に悩み、大正5年(1916)下落合にアトリエを新築します。37歳で夭逝するまで画業を続け、「エロシェンコ氏の像」(重文)など代表作を生み出しました。
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夏目漱石

夏目漱石画像新宿歴史博物館蔵
区指定史跡 夏目漱石誕生の地(喜久井町1)/終焉の地(新宿区立漱石公園・早稲田南町7)

 文豪夏目漱石(1867~1916)は、牛込馬場下横町(現喜久井町)に生まれました。帝国大学で英文学を専攻し、松山の愛媛県尋常中学校に教師として赴任します。熊本の第五高等学校を経て、帝国大学の講師となりますが、明治40年(1907)朝日新聞社に入社し、本格的に作家活動を始めます。この年から亡くなるまで早稲田南町にて暮らした建物は「漱石山房」と呼ばれ、『三四郎』『それから』『こゝろ』『明暗』など代表作を数多く執筆しました。
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服部半蔵

服部半蔵画像浜松市博物館蔵
区指定史跡 服部半蔵の墓(西念寺・若葉2-9)

 服部半蔵(1542~96)は、本名を正成といい、徳川家康の三河以来の旧臣で、家康十六将の一人に数えられる武将です。「鬼の半蔵」として知られ、三方ヶ原の戦い・小田原攻めで攻をあげ、知行8千石、城の警備役を担当しました。徳川信康が切腹する際介錯役を命じられますが果たせず、麹町清水谷に庵を建て、信康の菩提を弔い、仏門に帰依しました。

塙保己一

塙保己一画像国会図書館デジタル化資料より
区指定史跡 塙保己一の墓(愛染院・若葉2-8)

 江戸時代中期の国学者塙保己一(1746~1821)は、武蔵国児玉郡保木野村(現在の埼玉県本庄市児玉町保木野)に生まれました。7歳で失明し、13歳のとき江戸に出て雨富検校須賀一の門下となり、その本姓塙をもらいます。検校となり、水戸藩の『大日本史』の校正なども手がけました。寛政5年には和学講談所を開設し、『群書類従』を完成させ、総検校となりましたが、『続群書類従』の編纂なかばで亡くなりました。

林芙美子

林芙美子画像
区登録史跡 林芙美子終焉の地(林芙美子記念館・中井2-20-1)

 小説家林芙美子(1903~1951)は福岡県門司市(現北九州市)に生まれました。大正11年(1922)に上京し、職を転々としていましたが、昭和5年に発表した自叙伝的小説『放浪記』がベストセラーとなり、文壇での地位を確立しました。昭和16年から亡くなるまでを過ごした家屋は、現在林芙美子記念館となっています。
林芙美子記念館へ

二葉亭四迷

二葉亭四迷画像早稲田大学図書館蔵
区指定史跡 二葉亭四迷旧居跡(四谷1-13)

 小説家二葉亭四迷(1864~1909)は、本名を長谷川辰之助といい、尾張藩士の子として市谷本村町の尾張徳川家上屋敷(現防衛省)に生まれました。少年期にロシア文学の影響を受け、坪内逍遙の指導で創作を始めます。明治20年に言文一致体の文章による『浮雲』を発表し、近代写実小説の先駆けとなりました。区指定史跡の旧居跡は、東京外語学校在学時に住んでいた父方の実家水野家の跡です。

便々館湖鯉鮒

便々館湖鯉鮒画像
区指定史跡 便々館湖鯉鮒狂歌碑(常圓寺・西新宿7-12-5)/区登録史跡 便々館湖鯉鮒の墓(光照寺・袋町15)

 江戸時代中期の狂歌師便々館湖鯉鮒(1749~1818)は、本名を大久保平兵衛正武といい、幕臣で小笠原若狭守支配、禄高150俵、牛込山伏町に居住しました。はじめ朱楽菅江門下で狂歌を学び、福隣堂巨立と名乗りましたが、故あって唐衣橘州門下に変わり、世に知られるようになりました。大田南畝と親交があり、南畝の筆になる狂歌碑が西新宿の常圓寺にあり、区指定文化財に指定されています。

松井須磨子

松井須磨子画像国会図書館デジタル化資料より
区指定史跡 松井須磨子の墓(多聞院・弁天町100)

 新劇女優松井須磨子(1886~1919)は、本名を小林正子といい、長野県松代に生まれました。父の死後上京し、坪内逍遙が主宰する文芸協会の第一期生となり、「ハムレット」のオフィーリア、「人形の家」のノラにより新劇の代表的女優となります。抱月とともに文芸協会を退会し芸術座を組織し、中心女優として活躍しましたが、病死した抱月の後を追って自殺しました。

柳田國男

柳田國男画像成城大学民俗学研究所蔵
区指定史跡 柳田國男旧居跡(市谷加賀町2-4-31)

 民俗学者柳田國男(1875~1962)は、兵庫県神東郡田原村辻川(現 神崎郡福崎町)の医師松岡操の六男として生まれました。農商務省の官僚となった後、大審院判事柳田直平の養嗣子となり、市谷加賀町に入居しました。柳田は地方の実情に触れるうちに次第に各地の民俗に関心を深め、初期三部作『後狩詞記』『石神問答』『遠野物語』を著しました。

山鹿素行

山鹿素行画像赤穂市立歴史博物館蔵
国指定史跡 山鹿素行の墓(宗参寺・弁天町9)

 江戸時代前期の儒学者・兵学者山鹿素行(1622~85)は、会津に生まれました。江戸に出て、林羅山に儒学を、小幡景憲・北条氏長に兵学を学びます。赤穂藩浅野家に仕え家禄は千石でした。家塾を開き門弟の育成や『武教要録』などを執筆しますが、朱子学批判として赤穂に移されます。晩年は許されて江戸にもどり、積徳堂で門弟の養成にあたりました。

山県大弐

山県大弐画像甲斐市教育委員会提供
区指定史跡 山県大弐の墓(全勝寺・舟町11)

 江戸時代中期の思想家・兵学者山県大弐(1725~1767)は、本名を昌貞といい、甲斐国篠原村(現甲斐市)に生まれました。医学・漢学を学び、岩槻藩士となって江戸に出ますが、すぐに辞めて塾を開き、国学・兵学を講義し、幕末に活躍する志士を多く生み出しました。幕政批判と尊王を説いたため幕府に捕えられ、明和4(1767)年処刑されました。

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